SDC 開業物語

 スウェーデンという国は、ヨーロッパ諸国と陸続きであるか、隣国デンマークから船で出入りすることが多くどちうかというと“島国”のような感じがする国である。国民性は温和で恥ずかしがりやで、どこか日本の東北人のような印象がある。懇意になるまでは時間がかかるがひと度理解しあうと差別はしないし、親切であり、自分が外国人(日本人)であると感じたことは、5年間の留学中殆どなかった。もっとも、そのようになるのに3年という時間を必要としたが。

 1978年、九州の歯科大学を卒業した私は、将来の開業に備えて東京の開業医のもとで2年間臨床に携わった。その間に、友人が次々に開業するのを見聞きし内心焦りを覚えていた。何とか2年間の勤務医生活を終え、小学・中学と生活を送った干葉の中央で開業をした。開業地域の調査など殆どせずにスタートしたが、医院経営は順調であった。開業して半年程経った頃、「このままでいいのだろうか」「自分か目指しているものは何なのか」「地域医療に貢献するGPとしての充分な知識や技術か備わっているのか」などの多くのそして大きな疑問を覚えた。それからの私は、もっと勉強しなければと、研修会に積極的に参加した。しかし、頭のどこかに何か割り切れぬものが残り消化不良を起こしていた。

1986年・ペンシルベニア大学で、リンデ教授との初めての出会い
ニーマン教授と診療室にて

 1986年、“勉強をする機関”を求めて外国の大学や研究機関の見学をする機会を得た私は、アメリカへ渡った。当時の私は、歯牙を形成し補綴物を入れるのが歯科医の使命と考えて補綴医になろうと思っていた。虫歯・歯周病が「感染症」であるという概念は全くなかった。たまたま、フィラデルフィアのペンシルベニア大学の歯周病科で日本人向けのコースがあったので受講してみた。それが、その後の私の運命を左右するとは思いもしなかった。Dr.ヤン・リンデと Dr.スティーレ・ニーマンという日本でも著名な教授がそのコースの講師であった。

歯周病には興味がなかった私には、名前しか知らなくて世界的に著名な方だという認識は全くなかった。アイビー・リーグの名門、ペンシルベニア大学は歯学部も有名で、当時、世界各国から多くの学生か集まって来ていた。しかし、学生の増加がレベルの低下を招くという皮肉な事態になっていた。そのため、外部から優秀な教授を招いてレベルのアップに着手して3〜4年経過ごしたところであった。

 その教授に選ばれたのが、当時スウェーデンのイエテボリ大学の教授職にあったDr.ヤン・リンデと助教授のDr.スティーレ・ニーマンであった。しかも、Dr.ヤン・リンデは、ペンシルベニア大学の歯学部長という重要ポストで迎えられていた。

 講義内容は、患者を治療する時、「どういう方法が患者にとってベストか」やリサーチを如何に具現化していくかということが主体であった。私は大きなショックを受けた。同時に、これこそが私の求めていたものではないかという漠然とした期待を抱いたことを今でも覚えている。しかし、期待と同時に一抹のしかも大きな不安が、私の「脳みそ」を支配していた。

 「私は日本のGPだ。日本には専門医制度がないがアメリカにはある。アメリカに居住して歯科医として生きていくのならいいが、将来は日本に帰り日本の患者のために診療を行うのが目標である。GPとしての教育を受けられるところをアメリカに探しに来たのだ。」

 ところが、コース終了後にDr.リンデと交した会話が思わぬ展開に発展した。上述した気持ちを素直にDr.リンデに話したところ戻ってきた言葉は、

 「それなら、私のところが最適だよ。歯周処置から補綴処置まで自分で行ってみるのが私の教室のポリシーだ。」

 私は、勉強の出来る場所が見つかったと感じたが、英語力に多少の心配があった。自分が本当に望んでいるものは何かをじっくりと考える時間を持つ。「リンデ教授の元で勉強がしたい」これが悩んだ末の私の結論であった。私は、リンデ教授とニーマン教授のコースを受講した。4日間のコースであったが、時差や疲れのためついつい居眠りをすることもあったが、テープに収録した事が、後で重要な教科書の役割を果たしてくれた。コースの中でのニーマン教授の「マイクロバイオロジィー(細菌学)」の講義では、それまで私が習得していたものをはるかに超える内容に大きなショックを受けた。

 日本に戻った私は、今後の自分の進路を決めるため、リンデ教授と何回がコンタクトをした。その結果、ペンシルベニア大学に留学することを決心した。しがし、1987年末にリンデ教授から、「ペンシルベニア大学から急遽イエテボリ大学に戻ることになった。」との手紙が私のもとに届いた。ニーマン教授も一緒にイエテボリ大学に復職するという。

インストラクターであるエリザベス・ベストフェルドの指導の元での臨床スナップ
大学院での教え子との卒業式スナップ
右:ギリシャからの留学生
左:イタリアからの留学生

 1988年1月、リンデ教授とニーマン教授はイエテボリ大学に復職する為に、スウェーデンに帰国した。ペンシルベニア大学に留学する決心をし、新たな世界での生活を夢見ていた私の気持ちは揺らぎはじめてしまった。

「ペン大かイエテボリか。ペン大では2年のマスターコースを終了すれば学位をもらえるのも魅力だ。どうしたらいいのか?」

冷静に考えてみても結論がながなが見つがらない。

「どうしたらいいんだろう。」
「自分が真から求めているのは一体なんなのだろうか?」

自問自答を繰り返す中で出した答えは、「私はどうしてもリンデ教授に師事して科学的な物の見方を身につけたい。」ということだった。「私は、イエテボリ大学に行きたい。そして、教授に師事し研究を続けたい。」との手紙をリンデ教授に送った。

 しばらくして、リンデ教授から届いた手紙には、「イエテボリには外国人向けの大学院がない。でも、どうしても弘岡が来るというのなら、外国人向けの大学院を設ける。」といったような内容が書かれていた。本当だろうか? 夢ではないだろうか?私は自分のほっぺたをつねってみたい思いがした。でもそれは現実のものであった。

 1988年8月、私は家族を伴ってスウェーデンに渡った。外国人向けの大学院がなかったため当初研究員として迎えられ、研究の手伝いをしながら大学院が出来るのを待つことになった。大学卒業以来本格的な研究をしたことがなかった私には、貴重な経験となった。半年後、外国人向けの大学院が創設されたが、院生は私一人で、「たった一人」の大学院生の生活がスタートした。

 1年後、「ジャーナル・オブ・クリニジー・コース」で生徒の募集が始まり、新入生と一緒に2年間のコースを受講した。まず、一人の大学院生の生活が始まってまもなく、20種類程の論文を渡され、2週間後に試験を行うので読んでおくようにいわれた。それまで英語の論文など殆ど読んだことがなかった私には、1頁読むのにがなりの時間を費やしてしまう。2週間経過ごしても渡された論文全部にそれぞれ2回程度しか目を通せない。試験の期日は刻々と迫ってくる。

 悩んだ末に、教授に試験の延期を申し出た。なんたることか!大学院での勉強を続ける為に、私には、エリザベス・ベストフェルドとアンジェラ・ベンスツルムという2人の女性トゥータ(担当教官)がついた。私は、これまで一度も女性に習ったことがなかったので、抵抗を感じ、リンデ教授にトゥータを変えて欲しいとお願いした。この「お願い」が、後で認識不足を恥じることになる。

 「男女平等」という言葉を多く耳にするが、「男女平等」ということに対して、日本ではその意味合いが誤って解釈されているような気がする。しかし、スウェーデンには本当の「男女平等」が存在している。女性でも、実力が伴っていれば、政治家にも大学教授にもなれる。実際に多くの女性が各分野において、男顔負けの活躍をしている。その数は日本と比較してはるかに多い。私の担当教官、エリザベス・ベストフェルドとアンジェラ・ベンスツルムという2人の女性も、こうした環境の中で認められた女性トゥータであった。

 私が日本に帰国した年1993年、スウェーデンでFDIが開催された。このFDI開催に至るまでには、イエテボリ大学矯正科教授ビランダーという女性教授の力が大きかった。勿論、リンデ教授やブローネンマルク教授の力も見逃せないが、彼女の政治力を伴ったアグレッシブな行動がFDIの開催を実現させ、成功へ導いたのである。「研究」という分野においてはすべて本当の平等な環境の中で本格的な研究生活が始まった。最初に私に提供されたのは、動物実験室の隣の部屋であった。最初の1年間はトゥータのもとで研究員として疫学のリサーチを行った。

 その間に、トゥータのひとりベンスツルム(現在教授)から2〜3回共同リサーチの申し出があったが、私はそのリサーチを断わった。その理由は、イエテボリ大学では動物実験にビーグル犬を使っていて、“彼等”が私の隣室で実験のために殺されるのを何回も見ていたし、その上、留学する1年前に日本で飼っていたのがビーグル犬ということもあった。

トゥーターの1人E.ベストフェルド(現 フロリダ大学歯周病科)の指導の下での手術スナップ
Sweden Karolinska Inst.歯周病科主任Prof.B.Klingeとのスウェーデン・デンタルセンターにおけるインプラントの手術スナップ

 疫学の研究を始めて3年経ったある日、教授に呼ばれて臨床のリサーチの誘いがあった。臨床のリサーチなら興味もあるし、日本に帰った後でも続けられると思い、このリサーチのメンバーになった。私は、自分がやりたいことが初めて解ったような気がした。結局、疫学のリサーチを5年間行ったが、この臨床リサーチのメンバーになって研究を続けたことが、5年間1度も日本に帰らなかった大きな理由であったように思う。

 私が5年間リサーチを行ったイエテボリ大学は、 1991年に創立100年を迎えた大学であるが、スウェーデンではさほど歴史のある大学ではない。歯学部はその年に創設25周年を迎えたから、今年で33 年になる。

 歯科の治療にエアタービンが本格的に導入されたよりもあとに“生れた”歯学部が、短期間で歯学の頂点に立った背景には一体何があるのだろうか? 世界をリードする歯周組織の再生法、ブローネンマルク・インプラント等に、その背景の一端を見ることが出来るが、一番の要因としては、歯科医師は科学者であるという認識が歯科医師だけでなく患者にもあることがあげられる。

 科学者とは、科学にのっとって、常に新しいものに挑戦し、リサーチし、良好な結果を以て臨床に採り入れて行く研究者の事と理解している。

 5年間のイエテボリでの生活で目のあたりにした多くの歯科医師のリサーチに対する姿勢が、世界をリードするイエテボリ大学の基幹を成しているのだろう。

 妻と2人の子供の4人家族で始まったイエテボリでの生活も、「レイナ」というリンデ教授の奥様の名前をいただいた新しい家族を加え3年が過ぎようとしていた。この間、すべて私費で過ごしてきたので、蓄えが底をついた。教授から報酬をくれるという話しもあった。しかし、日本には残して来たオフィスもある。何か事があればいつでもすぐに日本に帰れるようにしておかなければならない。妻や子供は、私の“わがまま”でイエテボリに連れて来られたのだ。妻や子供を私のために犠牲にすることは出来ない。こんな理由で、「報酬」という嬉しい申し出を断わった。

 1993年に研究の成果が認められ、イエテボリ大学から学位を授与された私は、家族とともに5年ぶりに日本へ戻った。帰国した私は、日本に残しておいたオフィスの立て直しに2〜3年の時間を費やした後、1996年に東京・日比谷にスウェーデン・テンタルセンターを開設した。

 オフィスでは、イエテボリで培われた科学的な治療体系を日常の臨床に積極的に採り入れている他に、希望する多くの臨床家に勉強の場を提供する研修会を開いている。この研修会には、海外からも講師を招く事が多く、研修会への参加者も含めた方々の便利さも考慮して、東京・日比谷にオフィスを構えている。

 私の後に、代診らを毎年イエテボリに留学させているが、今年帰国する代診でもう5人目になる。これからも、このシステムを継続させ、患者にとって安心で安全で確実な治療を心がけていきたい。

 今思えば、1986年にペンシルベニア大学で初めて出会ったDr.リンデとDr.ニーマン、この2人から教わった事、「歯周病も虫歯も感染症」という事実を確認・実証出来た事が、今の私の診療哲学を確立するスタートラインであったように思う。

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